【人が亡くなるということ】
遺言と相続を専門にしていると、一般の人より訃報に接することが多い。
「誰々が亡くなったので相続の手続きをお願いします。」
「遺言を作った誰々が亡くなりました。」
仕事で相続や遺言に慣れているとはいえ、人の死にはどうしても慣れません。
一面識もない方の相続手続きでしたらまだしも、遺言書作成などで生前お話を交わした方の訃報に接すると、とてもつらい。
両肩がずっしりと重くなり、業務に少し支障が出るほどです。
業務に支障が出るほど落ち込むのはプロとして失格かもしれません。
でも、それが私なんでどうしようもない。
過去、遺言書作成から1ヶ月ほどで亡くなられた方もいらっしゃいました。
そのような時は、本当にショックです。
遺言書を作っておいたことで、ご遺族の方からは、相続争いを防げたと感謝の言葉をいただきますが
作成に携わった私は、感謝されるのは嬉しいのですが、亡くなられてしまったことに強い痛みを感じます。
依頼者のご自宅に仏壇があれば私は手を合わせます。
亡くなられて間もないようでしたら、何かお供えになるものを準備します。
人の死には敬意を払わなければならない。
「結言」という言葉も適切なのかわかりませんが、人の死を無理に明るいイメージにしようという言葉には少し抵抗を覚えます。
「笑顔相続」
「爽続」
「ハッピーエンディングなんとか」
「終活コンシェルジュ」
こういった言葉、私は嫌いです。
人が亡くなって「笑顔」とか「爽快」とか「ハッピー」なんてことあるのかな、と思いますし
エンディングなんとか、終活とか、他人が勝手に終わりを決めるなとも思う。
そういった言葉を使われている方も、自分が身内を失って他人から
笑顔相続とか爽続とかって言われたら、きっとイラっとすると思う。
「笑顔になんかなれるか!」って。
私自身、自分の父親の死を忘れつつあるようで、未だにその死を引きずっているところがあり
かならずしも、時が全てを解決するものではないと感じています。
いつまでたっても笑顔になんてなれないし、自分が年齢を重ねればその分死に近づいて
ますます亡くなった父のことを思わずにはいられない。
季節の変わり目で体調がすぐれないし、身近であまりいい話を聞かないので
いつも以上に「人の死」を重く考えてしまいました。
村瀬なおひと司法書士事務所は、障がいを持つ方が働く小牧ワイナリーを支援しています。
【小牧ワイナリー】
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